'97

自分の顔が無理

 

自分に自信がない。

ずっと自信がない。外見もない面も好きではない。いつになっても好きになれない。

  

 

「二重まぶたになりたかった」という曲がある。「誰かに認めてほしかった。自分を愛してあげたかった。」って歌詞。好きな男に顔でコンプレックスがあるかと聞いたら「高すぎる鼻の形と顔がデカいところ」と言っていた。好きな男は顔が整っていると思うけど、それでもやっぱり悩むんだ、と思った。

私は左目が奥二重になったりするけど、基本ずっと一重でそれがどうしようもないコンプレックスだ。目が小さいのが嫌でアイプチをしないと外に出たくない。かわいい子はみんな二重だ。幅が広くて、目が大きくて、ああいいなと思う。こんな自分もイケてんじゃね?と思えなくて、ずっと苦しい。好きな男に顔が小さいのが羨ましいとよく言われる。頭の大きさが羨ましいと。でも私は好きな男の並行二重が心底羨ましい。二重の人がみんな可愛いわけじゃないよ、顔の下半分残念な人もいるじゃんとか、私は自分の顔好きだよとか、そんなのことは聞いていないの。

私は化粧してる自分の顔が大好き。でも他人から見たらバレバレのアイプチだしな、とか、二重の人は化粧しなくてもちやほやされたりすっぴんで外出られるんだろうな、とか。

不細工だと言われたことはない。これでもちやほやされてきた方だと思う。でもずっと苦しい。誰かに可愛いって言われなくても、自分だけは自分のこと可愛いって思いたかった。自分を認めてあげられないのが苦しい。だから整形ってあるんだな。サイコー。

ずっと可愛くいてほしいって言う好きな男の言葉が辛い。他意はない。純粋に、ただ可愛くいてほしいと思って、言っているだけ。でも私は自分のこと可愛いって思えない。

もし私が二重まぶただったら、毎日自分のこと可愛いって思って、自分しか勝たん!って思って、毎日化粧をするのが楽しくて仕方なかったんじゃないかとか思う。化粧をしている自分は好きだけど、毎朝鏡を見るのが憂鬱で、化粧して外出て汗かいてアイプチが取れて泣きそうになる。羨ましいな。働いてお金貯めて整形して早く自分のこと好きになりたい。認めてあげたいし、愛してあげたい。他人の目に自分がどう映っているのか知るのが怖い。

 

「自分だけは自分のこと好きでいてあげたい」

長いこと言ってるけど、未だに無理だな。外見も内面も、自分しか勝たん!って思いながら笑って生きていきたいのに、定期的に鏡を見ては死にたくなる。ちびすけが生まれる時、好きな男に似てくれってずっと思ってた。私に似ないでほしいと思っていた。自分の顔が好きじゃないから、私みたいに自分の顔嫌いになってほしくないと思ったから。二重の方が生きていきやすいから。実際、ちびすけは今一重だけど、二重がいい一重は嫌だとかずっと悩んでた自分が馬鹿らしくなるくらいちびすけは可愛かった。母親がせっせと化粧をする私を見て、怪訝な顔をしていた理由が分かった気がする。

 

アーーーーーー、自分のこと好きになりたいヨーーーーー

 来世ではお願いします。

9月5日

 

23歳になった。

私には兄弟が私を含め5人いる。小さい頃、まだ父が居た頃。家族誰かの誕生日になると決まって食後のホールケーキが出た。私はチョコレートケーキが好きだったが、兄や弟はショートケーキのほうが好きだった。私は苺が苦手だったから、兄弟の誰かにあげていたと思う。母の誕生日はケーキは出ない。甘いの苦手だからとか、歳とっていくだけだし嬉しくないとか、そんなことばかり言っていた気がする。昔のアルバムに、小さい私たちがケーキの前で笑いながらピースをしている写真があった。そんなことでしか愛を確認できない。

 

20歳になったら一緒に死のうねと約束した人がいた。今はもう会うことも連絡を取ることもできない人。私の心の中の柱のような人。大切な人だった。そんな約束をしたもんだから、20歳を超えてからの人生は全く想定していなかった。本当に死ぬつもりなんてきっとなかったが、未来のことなど到底考えられるような精神状態ではなかった。

 

私の死にたいは「誰の心にも残らず綺麗さっぱり消えたい」だった。この世には死にたいと思ったことがない人が一定数いるということを知って私はひっくり返るくらい驚いた。羨ましいと思わなくもないが、どういう風に生きてきたら死にたいと思わず生きてこれるのか不思議でたまらないし、今でもその人たちの気持ちは分からない。否定しているわけではなくて、単純に理解ができない。気持ちは分からないけど、分かってみたいなとは思う。

話が逸れた。20歳で死ぬというのはありきたりだと思う。若くて綺麗なうちに死にたいとか、世の中に絶望して、とか、ありがちで陳腐だと思う。私は後者だった。本当に死ぬつもりなんてなかった。死にたくて消えたくて、でもできなくて必死に生きた結果が今だ。私が20歳で死ぬと言ったのは17歳の夏だったと思う。茹だるように暑くて、湿気で夜も寝苦しいような、そんな日だった。どこにも居場所がなくて、だれにも愛されないと思っていた17歳の夏。一緒に死のうねと言った人がどこまで本気だったかは分からない。でもその言葉は私にとって救いだった。だって終わりが分かれば頑張れるから。

 

あのくらいの年代の女の子は、死にたいと思う子は多いと思う。私は自分の思想や気持ちを誰かに伝えたり、困ったときに助けを求めたりするのがすこぶる苦手だった。幼少期にわがままを言ったり、何かをねだって買ってもらった記憶がない。ディズニーランドのCMを見ていいな行きたいなと言えば母は激怒した。そんなんに行けるほどうちは裕福じゃないとか、行きたきゃ一人で行けばいいでしょとか。習い事や部活もそうだった。習い事したってどうせ続かないでしょとか、運動部は金がかかるからやめてとか。そんな言葉で育った私は何を言っても否定されるから、何も言わなくなった。自我を通すより相手に合わせる方がよっぽど楽だった。母に何を言っても否定されたような気持になったし、何を言っても無駄だと思うようになった。私が何か言えば、母は「お前のせいで鬱病が悪化した」と言って精神科でもらった薬を沢山飲むし、お前さえいなければとか言うから、触らぬ神に祟りなしだなと思った。母が大好きだったけど死にたさはどんどん加速していって、でも死ねなくて、左腕に傷をつけた。流れる血を見て生きてる感じがするとか、そんなのはよくわからなかった。ただ自分なんて傷つけばいいと思ったし、実際傷を見ると落ち着いた。傷のある自分が好きだった。多分、理解されないだろうけど。

 

20歳で死ぬと言ってから、3年が経ってしまった。しかも子どもまで産んでしまった。どうしよう、とうとう後戻りできない。軽率に死のうとできない。死ねなくなっちゃったな。昔に比べて、死にたい気持ちはもうあまり残ってないけど、私は死にたい自分が好きだった。これも理解されないだろうけど。不幸でいると安心する、幸せはいつか壊れちゃうから。今まで付き合ってきた男の人はみんな「文ちゃんが居ないと死んじゃう」って言うけど、ちびすけは本当に私が居なくなったら死ぬ。少し目を離したら簡単に死ぬ。そういうものを生み出してしまった。これは責任だなぁ。ちびすけを産んだことを後悔しているのではない。死ねなくなっちゃったなぁっていう、そんな気持ち。私が42歳になったらちびすけが20歳になる。だからそれまでは生きようかなって思ったけど、20歳で親が死ぬのは辛すぎるので、50歳まで生きよう。そんなくだらないことを考えている。

 

20歳の時は、介護を辞めると思っていなかったし、4年半付き合った恋人と別れるとも思っていなかったし、母がこんなにいい「母」になると思っていなかったし、子どもが生まれるとも思っていなかった。私、20歳で死ななくてよかったな。

好きな男が「文ちゃんは俺に出会うために生まれてきたんだよ」「死にたかった俺を救ったのは文ちゃんだよ」と言う。そんな大袈裟なとも思うが、もしそうならあの時死ななくて本当によかった。死にたかった好きな男に「一緒にいられたら何でもいいや」と言った私ナイス。全く覚えていないけど。0時半を回った頃、眠っていたはずの好きな男が2階から降りてきて、開いてない目で「誕生日おめでとうございます」って言うから笑っちゃったな。自分が生まれた日を大切な人に祝ってもらえることは幸せだなと思う。幸せはいつか壊れちゃうのかもしれないけど、この幸せだけは壊れないでほしい。

 

チョコレートケーキ食べたい。

 

ちびすけ

 

 

ちびすけが生まれて、4ヶ月。あと半月で5ヶ月になろうとしている。早いなあ。

 

今のちびすけは

ミルク→200㏄(飲まなければ数分後温めなおすと完食)

睡眠→午前中は2時間程度寝たり寝なかったり夜は20時~2時・3時に一度起きてその後朝まで寝る

お風呂→生まれた時から大好き

散歩→ほぼ毎日、散歩も大好き

 

大体はこんな感じだ。

 

ちびすけは寝るようになった。本当に。生後1ヶ月から3ヶ月までは夜全く寝なかった。夜中から明け方にかけてようやく寝る生活を繰り返していた。あの時は流石に辛かった。

よく、“ 子どもの泣き声で起きない旦那を蹴り飛ばしたくなる ” と母たちが言うが、それは本当にそうだった。だけど、私は好きな男に対する怒りよりも好きな男を寝かせてあげたい気持ちの方が強かった。でも「頼むから泣かないで、好きな男を寝かせてあげて、仕事で疲れてるの、お願い」なんてちびすけには伝わらないし、ちびすけの知ったことではない。ちびすけの夜泣きで好きな男を起こしてしまうことが何よりも苦痛だった。好きな男は優しいから、大変な時は起こしていいんだよと言うが、私にはそれもできなかった。

 

真っ暗な部屋でちびすけと二人ただただ孤独だった。夜が永遠に終わらない気がした。時計の秒針ばかり見ていた。毎日夜になると怖かった。どうしたらちびすけが泣き止むのかわからなかった。オムツも替えた、ミルクも満腹まで飲んだ、でも寝ない。何が悪い?部屋の温度か?調節しても寝ない。なんでだろう。どこか痛いのかな。辛いのかな。そんなことばかり考えていた。抱っこしている間はうとうとするが、布団に下せばギャン泣きされまた一からやり直し、ずっとそれの繰り返し。夜中中ずっとそれだった。

 

ちびすけの泣き声で頭が痛くなる。鼓膜が破けそうだ。精神的に辛かった。なにをしても泣き止まないちびすけをひっぱたきたい衝動に何度も駆られた。うるさいんだよと大声で怒鳴りつけてしまいそうだった。腕の中で泣き叫ぶちびすけを布団に思い切り投げてしまいたかったし、ちびすけの口を手で塞いでしまいたかった。

そのくらいしんどかった。

そんな毎晩を送っていると頭がおかしくなりそうだった。ああ、これは鬱になるの分かるわ、虐待って他人事じゃないな、顔真っ赤にして泣いてるな、ちびすけも本当は寝たいんだろうな。私は暗い部屋の中で体育座りをして、泣き続けるちびすけをジッと見ていた。体育座りをして、両の腕で自分を抱きしめてた。そうすることで少しでも自分を守っていた。自我が崩れないように必死だった。

そんなことをしていると、流石に好きな男もちびすけの泣き声で起きる。ちびすけを任せて、荒々しくベランダの窓を閉め、室外機の上で体育座りをして何度も一人で泣いた。

怖かった。

自分が自分でなくなるようだった。母が私にしてきたことを、私もちびすけにしてしまうかもしれない。殴ってしまうかもしれない。いつかちびすけをこの手で殺してしまうかもしれない。ちびすけは何も悪くない。私を困らせたくて泣いているわけでもない。そんなのは頭で十分わかっている。頭では理解している。それでも感情が抑えきれずに殺してしまうかもしれないと本気で思った。怖かった。生まれて数ヶ月のこんなに小さい赤ちゃんにすら優しくできない。自分には母親になる資格がないんじゃないか。自分は悪なのだ。私は自分のことを心底軽蔑した。

 

朝日が昇る頃、ようやく眠れたちびすけの顔を見て、またボロボロ泣いた。ああ可愛いな、大好きだな、こんなに好きなのに、命に代えても守りたいと思うのに、どうして優しくできないんだろう。毎日毎日、日を重ねるごとに自分のことが嫌いになっていった。汚い部分ばかり見えてしまって。自分なんか死ねばいいと思った。死にたいと思った。優しくできない、笑えない自分はいなくなればいいと思った。そんな毎日だった。

 

3ヶ月半を過ぎた頃、ちびすけは徐々に夜眠るようになった。今ではあまりに寝るのであれ?大丈夫?死んでないよね?と確認しに行くほど寝るようになった。あんなに夜泣きに苦しんでた期間は、他の人と比べたら多分そんなに長くない。でも本当にしんどかったな。

ちびすけがどうしたら眠れるか携帯で調べまくった。「部屋の電気を暗くして昼は起きる夜は寝るという習慣をつけるといいです」なるほど、やってみよう。部屋の電気を消して、豆電球にしてみた。余計寝なかった。火がついたように泣く。なんでだ。もしかしてと思い、調べる。「赤ちゃん 暗いところ 怖い」やっぱりと思った。

暗いところが怖い赤ちゃんもいるんだ。周りに子育てをしている友だちもいなければ頼れる大人もいなかった私にとってネットは救いだった。ネットのあるこの時代が子育てを出来ることに心から感謝して、明るめのオレンジの簡易照明をつけるようになった。他にもいろいろ気付いた点があった。ちびすけが起きそうになった時に枕を直してあげると再び寝ること、モロー反射で寝付く瞬間に手がビクッとなって起きてしまうのでお包みをすると眠れる、抱っこだと寝る、揺れてると眠くなるから膝に乗せてずっと揺らす、ドライヤーの音は胎児だったころに聞いていた音に近いから安心して眠れる。マジネット感謝。ちびすけは一人では寝たがらないのでベビー布団は初めの1ヶ月しか使わなかったな。高かったのにな。

最近の寝かしつけは腕枕をして声をかけながらひたすら背中をトントン叩く。眠たきゃスッと寝るし、寝ぐずりして足で蹴ってどんどん上に行ったり暴れたりするときは寝ないので宥めてまた腕枕をすると寝る。ずっと抱っこできる体重でもなくなってきて、私も横になりたいから前々からどんなに泣き叫んでも寝の体制として習慣にしてきた。それが今は実を結んで本当にハッピー (急にバカっぽくなる) 

眠い時にお包みに包むと一人で寝る姿を見て今でも感動する。お包み開発した人に土下座して拝み倒したい。

 

ちびすけは元々ニコニコする子だけど、声を出して笑うようになってきて、もう尊過ぎて死ねる。天使でしかない。語彙力がなくてうまく伝わらないかもしれないけどこの世で一番きれいな笑顔で笑う。マジ泣きそうになるもんね。可愛すぎて。ハァ…好き…。

本当産んでよかった。この先離乳食拒否とかイヤイヤ期とかあって多分また病むけど、今のところ産んでよかった。未来のことは分からないけどね。夜泣きがひどくて、どれだけちびすけを憎く思っても、産まなきゃよかったという思考にはならなかった。だから自分の母親はどんな気持ちで私に産まなきゃよかったと言ったんだろうって考えて死にたくなった。

 

私は親につけられた傷が体にはない。だからかもしれないけど、どんな暴力よりも言葉の方がずっとずっと重いと感じる。もちろん殴られて痛かったよ。でもそれより、産まなきゃよかったとか死ねばいいのにとか、そういう言葉の方が今でもずっと辛い。

言葉は呪いだと思う。

どんなに幸せでも一瞬であの頃に引き戻されてしまう呪いである。そんなこと考えていた。でも、逆も然りなんだよね。

 

母親に内緒で中学校をサボって、どこかに行きたくてでもどこにも行けなくて、学校裏の川に一人でいるところを先生に捕獲されて、泣きながら家に帰った時に母親が私の頭を撫でて、泣くほど嫌なら行かなくていいと言ったこと。中学の入学式でお前が一番可愛かったと言ったこと。前から優しくていい子だったけど、介護職に就いてからもっと優しくなったねといわれたこと。遠い昔、リビングのカーテンを開けながら母が私に微笑んでおはようと言ったこと。私のことを想って、どうしてこの子ばっかりこんな辛い思いしなきゃいけないんだよと言って泣いてくれた私の大切な大切な人。何年会わずしても文ちゃん大好きだよという言葉を贈ってくれる友だち。文ちゃんもちびすけも世界で一番だと毎日言う好きな男。そういう優しかった記憶も私は忘れない。

 

言葉は武器だ。

人を癒すことも、傷つけることもできると思う。そしてそれが鋭利であればあるほど心に突き刺さることを私はよく知っている。だから私は言葉を傷つけるための道具として使いたくない。ちびすけの前ではいつでも優しくありたい。ちびすけをわざと傷つけるような言葉を使いたくない。愛されて育ってほしいし、ちびすけに大好きだよと言いたい。正直まだ照れくさい。男の子だから、ある程度大きくなったらうざがられるんだろうな。寂しいな。優しい子に育ってほしいな。欲張りかな。

 

おわり!!!!!!疲れた!!!!!!

 

5893字

 

眠るちびすけの顔を見て、ああ好きだなと思う。

自分の父も母もこんな気持ちだったのかとも。

 

本当はたくさん書きたいことがある。私は頭で考えると自分の考えがこんがらがって、誰かに何かを伝えるとき、何が言いたかったのかわからなくなってしまう。だからこうして自分の思っていることを文字にする。そうすると明確に自分のことがわかるような気がする。気がするだけかも知れないけど。

 

好きになった人が大切な存在であればあるほど、関係性が強ければ強いほど、私は言いたいことが言えなくなる。その根っこにあるのは嫌われたくないという感情だと思う。これを言ってしまったらという怯えである。関係がぎくしゃくするのは嫌だ、私が我慢すれば丸く収まる。そんな生き方をして来たら自分がなにを思っているのかが分からなくなった。自分で考えるのが面倒になった。どっちでもいいよ、なんでもいいよが口癖になった。誰かに自分の意見を言うより、全て飲み込むほうが楽だ。何食べたい?に対して、とっさに食べたいものが出てこなかったり、一人で出掛けてきていいよに対して特にやりたいことが浮かばなかったり。そういうのも全部、誰かに合わせて生きてきてしまった代償なのかな。今時、誰かに対して自分の意見をはっきり言える人の方が少ないのかもしれない。私みたいな人間が多いのかもしれない。だけど、好きな男はわたしに曖昧な態度を取らない。何食べたい?って聞いたら必ず食べたいものがでてくるし、どこか出掛けてきていいよっていったら今はちびすけと一緒にいたいって言ったり。羨ましいなと思う。だけど多分、私が好きな男みたいに自己主張の女だと、きっと合わないだろうなと思うから、別に不満があるわけではない。ただ、もう少し自我を持ちたいなっていう話。

 

母の事を思う時間が増えた。自分が母になり、母もこんな気持ちだったのかなとか、母は大変だったろうなとか。母が幸せだったとは思えない。母が私を愛しているのは分かってる。だけどどうしても、あんたなんか産まなきゃよかったという言葉がフラッシュバックする。幸せだったとは言い難い18年だった。友達の家族を羨んだし、どうして自分は普通になれないんだと何度も嘆いて泣いた。ろくにご飯を食べられなくて、一日白飯一杯だけの日や、母がうつ病の時は毎日コンビニ弁当だった。私がご飯を作ればよかったが、そもそも家に食材もなければそれを調達するだけの金もない。なにより母は私が台所に立つのを嫌がった。母の嫌がることはできなかった。当時高校生だった私の昼飯代は一日500円だった。当然弁当なんてものはないので、学食を食べていた。唐揚げの入った100円のわかめおにぎり一つだけだった。同級生たちはバイトや遊びでサイコーの高校生活を送っているように見えた。バイトも母から禁止されていたし、遊ぶ金もなかったので自分がすごく惨めに思えた。お金さえあればと何度思ったかわからない。父と母が離婚したのも金がなかったからだ。高校を卒業し、就職して、自分の金で生きていけるのが嬉しかったけど、働いても働いてもお金は溜まらなくて、やっぱり金に苦しんだ。今でもお金のことを考えると苦しくなる。ああ早く働きたいな。養ってもらう立場にいるのがとても後ろめたい。

お金はなくても愛のある家族は幸せだと思う。うちにはどちらもないと思ってたからどこにいても誰といても孤独だった。高校は同じような子が沢山いて、その辛さを語り合った。心が少し楽になるような気がしたけど、愛されて金もあって育った子どもにはその辛さは分かってもらえなかった。分かってもらいたかったわけじゃないと思うけど、住む世界が違うんだってはっきり分かった瞬間だった。その時の私は今よりもひねくれていたから、せっかく歩み寄ってくれた子に対して、同じ環境にいる人じゃないと分かんない、幸せな家で育ったくせに分かるとか言わないでとか思ってたな。同じ環境でなくても、幸せに育っても、人の心に寄り添おうとしてくれて、大変だったねって泣いてくれるような人が居るって知ったのはもっと後になってからだった。「同じ目に遭ってなきゃ分かろうとしちゃいけないの」って言われてハッとしたな。

 

母は弱い人だと思う。そしてとてもやさしい人だと思う。

母は頼れる人が誰一人いない中で、子どもを5人連れて知らない土地で養っていかなければならなかった。洋服はよれよれ、髪の毛はプリンもいいところ、白髪まみれで化粧っ気もなかった。ご飯は食べなくて、煙草と珈琲だけ。心配性で甘えるのが本当に下手くそで、素直じゃなくて、いつもイライラしてた。18歳で実家を出て、一人暮らしをするようになってから母は ”いい母” になった。優しくて、まるで私の知らない母のようだった。

今振り返れば、きっと母と私の距離が近すぎたんだと思う。母は私にしか自分の気持ちを話せなかったし、私はそれを全部受け止めてた。だから苦しかった。母が辛いと言えば私も辛くなった。母が死にたいと言えば私も死にたくなった。母は、私が母の言葉に影響されやすいのも分かっていたけど、あの頃の母は自我を保つのに必死だったんじゃないかと思う。実家を出てから、母といろんな話をするようになった。自分の事を話せるようになった。

母が昔、暴力的だった頃の話をしたことがある。「お母さんあの時どうかしてたの、早く忘れたい」そう言っていた。私は母にされたことを一生忘れないと思う。だけど母を憎んでいるわけではないし、恨んでもいない。当時の母は、お前たちを殺してお母さんも死んでやるって勢いだったし、私が母と同じ状況だったら私だってそうしていたかもしれない。それでも母が私を殺さなかったのは、どれだけ憎くても産まなきゃよかったと思っても、それでも私を愛していたからなんだろうな。私はそれを幼いながら分かっていたんだと思う。

私は今でも父のことも母のことも大好きだ。何をされても嫌いになれなかった。どれだけ辛くても他の家ならよかったのにと思わなかった。羨みこそしたけど、違う家族になりたいと願ったことはなかった。子どもとはそういうものなのだと思う。何をされても、何と言われようと、母の事は嫌いになれないのだと思う。もちろん、私よりひどい目に遭った子どもや、絶縁状態にある子どももいると思う。父や母が嫌いだという子どももいると思う。でも私は父や母のことを嫌いになれなかった。どうしても好きだった。親は責任があると、自分が親になってから強く思う。その責任って何よりも重いものだと思う。私のようになってほしくない、ちびすけには愛されていてほしい、愛されて育ったなと胸を張って生きてほしい、でも人の苦しみや辛さに寄り添える人間になってほしい。そのためには少しばかり傷ついたり、傷つけたりして成長しなければならない。葛藤がすごいな。

 

母に産まなきゃよかったと言われたとき悲しかった。殺してやるって言われたとき怖かった。あんたさえいなければと言われたとき苦しかった。私が居なければおかあさんはもっと別の人生を歩むことができたのかなって思って悲しかった。母の自由を奪ってしまったと思った。私さえいなければ、と何度も思った。何年も思い続けた。でも死ぬのは怖かった。手首に剃刀を当てたとき、血の気が引いていくようだった。痛いのは怖かった。結局、手首ではなくて腕の内側に傷をつけた。そうしたら少し楽になる気がした。母に言えなかった思いが浄化していくようだった。

それが母にバレた時、母は声を震わせて何をしたの、と言った。そんな分かり切ってること聞かないでよと思いながら、私は自分でやったと言った。母は泣き崩れた。文字通り泣き崩れたのだ。そんな母を見たのは初めてだった。その瞬間、ああやってしまったと思った。母を泣かせてしまった。私はその場にいられなくなって、泣きながら家を飛び出した。母は家を飛び出す私に何か言っていたが、全く思い出せない。あれは私のトラウマだ。その後、どうやって家に帰ったのかも、母とどんな会話をしたのかも、思い出せない。人は過度なストレスを感じるとその出来事を思い出さないようにするらしい。だから今は全く思い出せない。

私は母に一方的に感情をぶちまけられるだけだった。母に一切の反論もできなかった。私がなにかを言うことで、母を苦しめたくなかった。だから聞く側に徹した。この腕の傷はお母さんのせいだよって何度も言ってやろうと思った。少しは傷つけばいいと思った。でも言えなかった。やっぱり駄目だった。母を傷つけたくなかった。そうすると腕の傷は日に日に増えていった。それに気づいた学校の先生が私を抱きしめて泣いた。「気付いてあげられなくてごめんね、ずっと苦しかったんだね」そう言って泣いた。私は私の為に泣いてくれる人が居ることを知った。私も一緒になって泣いた。

全てを知っている友達が一人だけいる。彼女はもうしないでねとまるで自分が傷ついたように眉毛を八の字にして言った。悲しそうな顔だった。何年かして、その腕の傷は文ちゃんの生きた勲章だねと言って私の傷跡をさすってくれた。そんな大げさな、と思いながらやっぱり泣いた。私が自分を傷つけると、私を大切に思っている人が苦しむことを私は知った。それからもう自分を傷つけることはしなくなった。どんなに苦しくなっても、死にたいと思っても、自分の体に傷はつけなかった。私のために泣いてくれる人を傷つけたくない気持ちのほうが強かった。

 

そんな風に傷ついたり傷つけられたりして、今の私が形成されている。今まで生きてきて、悪意に触れることは少なかったように思える。いつでも優しく包まれてきたような気がする。恵まれた環境で育ったら、人の気持ちなんて考えなかったかもしれない。育ち方は関係ないのかもしれないけど。もし私がごく普通の家庭で育っていたら、人の気持ちがわからなかったのかな。どうなんだろう。その人によるんだろうけど。

 

私はいつまで経っても、自分のことが好きになれない。顔もそうだけど、性格も。私は自分を大事にできない。さっきの何食べたい?もそうだけど、左腕の傷とか。お腹は空くけど食べたいものが出てこない。食べたいものがない状態を食欲がないというらしい。それならこの世に食欲のない人間はどのくらいいるんだろう。私は自分のために何かをすることができない。ご飯を食べることや、自分磨きのための努力とか。

 

なんか暗いね。

 

今年のお盆帰省、どうする?ってニュースでやってた。帰る人も帰らない人もいるみたい。私の母は、まだ産まれたちびすけに会っていない。好きな男の両親もだ。会いたいけど会えない。ちびすけになにかあったら、もし私が保菌者で家族にうつしてしまったら。そんなことを考えたらやっぱり会えない。会いたいな。母はどんな顔をしてちびすけを抱っこしてくれるのだろうか。まだ画面越しでしか見てない孫にどんな風に笑いかけるのだろうか。そんなことを考えると余計に会いたくなる。

私の父と母は離婚している。父と最後に会ったのは北海道に来る前だ。約5年ぶりに会った。父は痩せて、昔よりずっと小さく見えた。「ちゃんと食べてる?」「食べてるよ」そんな会話をした。子どもを産むことは電話で伝えた。それが去年の10月頃。父との電話はすごく緊張した。父と話すのにはすこぶる勇気がいる。父が怖いのではない。ただ単に接し方が分からないのだ。一緒に居たのはもう12年も前だから。父と話して私は泣いた。

 

fim8ag.hatenablog.com

 

父に、「産まれたら子どもを連れて会いに行ってもいい?」と聞いた。父は「別に構わないよ」と言った。それだけで涙が出た。私たち家族はバラバラだ。会うのに理由が必要な関係だ。ちびすけを父に会わせたいというのは、父に会うための口実でしかないのかもしれない。それでも私は父に会いたい。

父に暴力を振るわれたことや、「お前のせいで他の兄弟が迷惑する」と言われ一人で夜の寒空の下、家を追い出されたこともある。鉛筆削り器の音がうるさいと言われ、怒鳴られたこともある。それでも父は優しかった。母もよく私を家から追い出した。家に入れてくれるのはいつも父だった。寒かっただろと言って風呂に入れてくれた。先端恐怖症で包丁が怖いからと言って父の作るご飯はいつも炒飯だった。ちびすけを寝かしつけるとき、背中や胸をトントンと叩いて寝かしつける。その瞬間いつも父を思い出す。父も私をこうして寝かしつけていたことを覚えている。小学校を遅刻すれば車で学校まで送ってくれた。自転車の乗り方だって教えてくれた。ひどいことだって沢山されたけど、私は小さな小さなやさしさをずっと覚えてる。

 

愛されなかったとずっと思っていた。だけどちびすけを育てて分かった。ちゃんと愛されていたと。愛してなければ育てられるはずもないし、私がここまで生きていられてなかったと。

 

私は父も母も大好きだ。嫌いになれっこない。

 

私は自分は不幸であると思いながら生きてきた。幸せになるのが怖かった。不幸だと思っていたかった。そうすることで自分を守っていた。幸せが怖いのは、いつか壊れてしまうことを知っていたからだ。いつか不幸になってしまうくらいなら、ずっと不幸でいたかった。傷つきたくなかった。幸せになったらなったで、つまらないなと感じた。自分には不幸が似合っていると思っていた。でも友達や好きな男は、私の笑顔を見て、「笑顔が一番似合う」と言ってくれた。私が笑えばちびすけも笑ってくれるようになった。幸せが怖かったけど、幸せになれてよかったと心の底から思う。いつか壊れてしまうなんて思う瞬間がないくらい幸せな毎日を送っている。愛されていないと悲観した私を浄化させてあげたい。暗い未来しか想像できなかった、20歳で死ぬと言っていた高校生の私は、22歳になった。これから瞬きする暇もないくらいのスピードでちびすけは成長していくだろう。そのうち寝返りをして、はいはいするようになるんだろう。来年の今頃には歩いて、外で一緒に遊んでいるのだろう。そう考えると、あの時死ななくてよかったと言える。死ねなかった私は不幸なんかじゃなかった。暗い未来なんかじゃなかった。

これから先、また辛いことがあるかもしれない。泣いたり、苦しんだりするかもしれない。でもそれでもいいと思える。ちびすけの成長を見届けるまで死ねなくなってしまったけど、それでいい。死にたかった頃の私はもういない。

 

最近

 

最近引越した。今の家はとても好きだ。日の光が入る家は好きだな。

札幌の生活にもずいぶん慣れた。好きな男にパソコンを自由に使っていいよと言われたのだが、スマートフォンがある今、パソコンで特にやりたいこともなく、暇つぶしにこれを書いている。今の家はテレビがあるから、東京に住んでいたころに買ったfireTVで映画でも見ようかなと思うが、これといって観たいものもない。こういう時、自分の関心が無さが寂しいなと思う。昔ほど何かに熱中することができなくなったし、熱中するほどのものもない。

映画館で近日公開の映画予告を観てああ面白そうだなとは思うけど、いざ観ようとすると何を観たかったのか忘れてしまう。本だってそうだ。好きな作家の小説でも気に入るまでに時間がかかる。聴いたことのない曲を聴く気にならない。なんだかつまらない人間だなあと思います。今まで誰かに合わせて生きてきたから、好きなことやっていいよって言われると極端に困る。やりたいこともないし、もちろん夢だってない。夢のある人が羨ましいと思うが、何かにチャレンジしてみようと思うような精神はない。暗い人間だな。

 

書きたいのはこんなことじゃない。まあいいか。ただの暇つぶしだから。

 

生活に変動があった。

早ければ9月から働くことになりそうだ。その間、ちびすけを好きな男が見ていてくれる。早く働きたいとは言っていたけど、こんなに早く働けるとは思っていなかったな。私は働いている自分が好きだ。キラキラしていたし、毎日汗臭くなりながらも充実していた。

もちろん当時はこんな風には思えなかったし早く辞めたいと思っていたけれど、いざ辞めると働きたいと思ってしまう。ない物ねだりだ。

 

12月末に仕事を辞めて家庭に入り、家事育児をやっているけれど、私は専業主婦無理だなと思った。ワンオペの母たちや何人も子供が居る母たちには尊敬の念しかない。家に籠るのは好きだけど、ずっと家にいなければならないとなると気の持ちようが変わってくる。よく、「家事育児だけやっていればいいから楽だよな」というセリフを耳にするが、やってみたらとんでもない。働いていたほうが100倍マシだ。自分の思うように家事を勧められないもどかしさ、いつまで経っても夜泣きの減らない息子、知り合いも友達もいない土地での孤独感。全部全部つらい。

 

ただ、私は好きな男は楽でいいよねといいたいわけではない。断じてそんなことは思ってないし、1mmも思ったことがない。家族を養うために働かなければならないプレッシャーに、私なら押しつぶされてしまうと思う。どっちが大変とかではないのかもしれないけど、感謝の念を忘れてはいけないなと思う。私が家族を養わなければいけない立場で、毎日朝から晩まで働いたら休みの日くらい寝かせてくれよと言いたくなるもんだが、好きな男は違う。

 

どんなに疲れて帰ってきてもちびすけの相手をしてくれるし、家にいるときはミルクあげるよって言ってくれる。文ちゃんはちびすけを見てるだけでいいからいいよねなんて言われたことないし、最近は炊事まで手伝うようになってしまった。私の負担を和らげるためだろうが、正直心配でたまらない。好きな男は「辛い苦しい大変」というマイナスの感情を私に絶対に言わないからだ。人に甘えるのが下手くそというよりは、甘えないようにしている気がする。私の負担にならないようにしてる気がする。好きな男は我慢の人だ。私はいつも心配してるんだよ。死なないでね、死んだら後追いするからねと言う私に、好きな男は笑って冗談に聞こえないからこわいと言う。

もし好きな男が人生に疲れてしまって、鬱になったり働けなくなったりしても全然いいやって思う。そうしたら私が働けばいいし、って思う。好きな男が生きていてくれたら私はたぶんそれでいい。

 

 

いつもすんなり幸せになれないんだよ、私。

好きな男との間にも大きな問題が立ちはだかっていて、それを考えて毎晩泣いた日もあったし、好きな男に思いをぶつけたり困らせたりした。なんでいつもすんなり幸せになれないのかなって思う。普通が遠いなって思う。まあそんなこと言っても現実起こってしまったことはどうしようもないんだけど。

 

私は好きな男に幸せにしてもらおうとか好きな男の金で食っていこうとか考えていなくて、むしろ私が幸せにしてやるよくらいの気持ちでいる。これを伝えた時もやっぱり笑われた。

昔から、一人でも生きていけるような人になりたいと思いながら生きてきたけど、実際は好きな男がいなきゃ生きていけないし、完全な他人依存型で情けないな。強い女性に憧れるけど、いったいいつになったらなれるのかしら。もしかしたらずっとなれないのかも。

いつでも、「今が人生で一番幸せ」って思う。もちろん今も思ってる。自己ベスト更新しまくってるって考えたらサイコーじゃない?好きな男とちびすけが居たら何もいらないなって思う。これは結構本気。私はわがままだから、この幸せが右肩上がりで一生続けばいいなって思う。

2019年

 

クリスマスというのはどうしてこんなにも虚しい気持ちにさせるんだろうか。

クリスマスというよりも年末感が強くて、こんな22歳でいいのかと若干不安になる。

 

2019年はいろいろなことがあった。

 

仕事は、18歳から介護職を始めて丸3年が経った。

正直、介護の仕事は性に合っていたと思う。誰かの役に立ちたい、困っている人を助けたいという気持ちから福祉に携わることを決めたけど、3年はあっという間だったと思う。患者さんに好かれることは得意だったし、患者の気持ちに寄り添うこともできていたと自負する。私がいることで患者さんの孤独感やさみしさが、少しでも軽減されていたならうれしいな。

私は認知症の患者さんが大好きでした。私のことなんて名前も覚えられないし、毎日同じことをしていても、今日初めて行うような反応に最初こそ戸惑ったが、3年も接していれば慣れてしまう。私のことを覚えていなくても、「あなたはいい子なのよ、私この子大好き」と言ってくれる患者さんに何度救われたか分からない。「あなたが病室に入ってくると病室がパッと軽くなるのよ」と言ってくれた患者さんの家族、妊娠していることを知って相談に乗ってくれた患者さんの家族、「文ちゃんがいなくなったら死んじゃう」と真顔で言う患者さん、私の笑顔を見ただけでにこにこ笑ってくれる患者さん、いろんな患者さんや家族の人の優しさにふれて働けたことを幸せに思います。同僚は年上ばっかりだったけど、みんなに優しく甘やされて育って、3年間ぬるま湯に浸かって生きてきたな、という感じです。

 

妊娠が発覚してから仕事を辞めるまで本当に早かったけど、力仕事だからと言って同僚がたくさん助けてくれたことが嬉しくて、申し訳なかった。戦力外といわれているようで苦しかったのも事実です。その反面、文ちゃんがいなくなったら病棟大変になるなぁと言ってくれた先輩の気持ちは計り知れないくらい嬉しかった。

送迎会兼忘年会の時に、みんなから直筆の色紙をもらって、思わず泣きそうになりました。愛されていたんだなと思えました。そのあと、一番お世話になった仲のいいナースと思い出話をしたら号泣しちゃったな。明日からもう出勤しないんだって思ったらさみしくなった。仕事をしていくうえで、意見の合わない人や上司のやり方と自分のやり方が合わなかったり、体が限界で辞めようと思ったことも何度もあったけど、思い返せばなんだかんだ好きに囲まれていたんだなと。続けてよかったなと思えます。

 

恋愛面では、4年半付き合った恋人と別れ、博多弁の大学生と付き合い1年弱で別れ、今の好きな男と出会った。怒涛の一年だった。まさか出会って半年の男と結婚することになるとは思わなかったな。去年の私が聞いたらびっくりして泡吹いて倒れるんじゃないか。でも出会ったときにこの人と結婚してもいいかなって思ったんだよね。人生って不思議だな(小並感)。好きな男は私が好きな男を想うよりずっと私のことを好きで、すごいなあと思う。自分のことが好きになれないのは相変わらずだけど、そんな自分を認めてくれて、好きでいてくれて、この先の将来が約束されている事実ってすごいな。異世界みたい。

 

妊娠した時のことを話すと、自分が子供を持つなんて考えたことなかったから正直、戸惑った。どうしようって思った。自分みたいなやつに子供を育てられるのか、母親みたいに虐待してしまうんじゃないかっていう思いが脳裏をよぎった。怖かった。なにより、産みたい、産みたくないの決断が難しかった。好きな男に「文ちゃんはどうしたいの」と聞かれて答えられなかった。『どうしたい』がないことでこんなに悩むとは思っていなかった。もともと、自分を強く持っているほうではなくて、今まで何となくで生きてきた。そんな自分が誰かの人生を決めるということは、私にとって本当に難しかったのだ。堕ろしてまでやりたいこともなかったが、産むと決めるのも覚悟がいるものだった。好きな男は私に意思がないことをわかっていたのだと思う。「産むにしても堕ろすにしても、文ちゃんの好きにしていいよ」と言った。私の意志が一番大切だと言った。

気持ちが固まらないまま母親に報告した時、母親はたぶん泣いたのだと思う。泣いてるの、と聞くと泣いてないよと言ったけれど。母親は「産まなかったら後悔するよ」と言った。その時初めて母親は兄の前に一人、妹の後に一人、中絶しているのだと聞かされた。「産みたかったけど、」と話す母親は弱々しかった。「お母さんは子供がいてよかった?」その問いに母は言葉通り苦笑いしたけれど、後悔はしていないのだろうなと思った。

母親に報告した後、4年ほど会っていない父親に電話で報告した。父親はさほど驚いた様子もなく、「どっちにするにしても他人にこうしろと言われて決めたら後悔するから、自分で決めなきゃだめだよ」と、小さい子供を諭すように優しい口調で言った。母親と父親は10年前以上前に離婚し、それからあまり関わり合いはなかったけれど、父親も私の親なのだなと思った。「パパは子供がいてよかったって思う?」私は母親に聞いた時のように、同じことを父親にも聞いた。「うん、よかったよ」父親から返ってきた言葉を聞いて、私は涙がこぼれた。父親がそんな風に思っているとは思わなかったからだ。

10年以上前に離婚し、「自分の子供だと思えない」と父が言ったのを知っているからだ。愛されなかった子供の私が、存在してていいんだよと言われているような気持ちになった。ちゃんと愛されていたんだということを知った。

私も愛したいと思った。おなかの中にいる小さな私と好きな男の子供を。

産むと決めてからも、おなかの中に子供がいることがなんだか信じられなかった。産婦人科に行ってエコーを見て、動いている子供を見て本当にいるんだ…と口に出したくらいだ。今は5ヵ月に入り、胎動も感じられるようになって、おうおう元気で何よりという気持ちになる。好きな男におなか蹴ってるよというと好きな男がにこにこして私のおなかに手を当てるあの瞬間は幸せだなと思う。

 

好きな男が北海道に転勤して2ヵ月が経った。転勤が決まった時期に、私の妊娠が分かった。長ければ2年ほど北海道に転勤だと聞かされた私に、好きな男と離れて一人で産んで育てるという選択肢はなかった。仕事を辞めたのもそれがきっかけだ。1年だと決まっていたら産休を取って復帰したかったけれど、2年となると話は変わってくる。12月半ばに北海道に来た私は、積もる雪や関東にいたころをは比べ物にならない寒さに戸惑った。だけど1週間もいれば慣れるものだな。人間は適応力があるなと思う。仕事を辞め、専業主婦になってからは毎日が暇だ。昼間は無気力で何もしたくなくて布団にくるまっていたら日が暮れる。夕方になり、夕飯の支度、好きな男に持たせるお弁当の準備、洗濯物などをやる気が起きてくるのだ。いままでがむしゃらに働いていたから、未だにこの生活にはなれない。好きな男はそんな私も優しく包みこむ。ちびすけが生まれたら休めないんだから今のうちに休んでおきなよというのだ。確かにそうかもな、と思い今日も夕方まで布団にくるまっていた。自分が母親になる実感はいまでもない。でも生まれたらかわいく思えるのかな。好きな男はもうすでにかわいいと思えるらしい。すごいな。

 

2019年、いろんなことがあったけど、来年はもっと早く時が過ぎるのだろうな。もっと沢山いろんなことが起こるのだろうな。今の願いは、どうか、この幸せが壊れませんように。ただそれだけだ。

 

メリークリスマス。

 

 

 

 

 

最近のこと

キャバクラを始めて早4ヶ月。店内ランキング上位にいるのも慣れたものだ。

 

好きな男とは別れた。大学生の、彼とは。

好きだと思えなくなった。会いたいと思わなくなった。そうなったら恋愛なんておしまいだ。別れを告げるのはいつもどちらかだと決まっている。別れを告げるのはいつも私だ。好きだった男はいい人だった。寛大で干渉せず、自由の身でいたい私にはちょうど良かった。だけど寂しさがあったのも事実だ。会いたいというのはいつも私からだった。厳密には会いたいのではなく、そろそろ会わなければ会うタイミングがなくなる。そう思うようになった。

あれは恋愛だったのだろうか。

一週間以内には必ず会っていたのに、気づけば10日ほど会ってなかった。私の中で、好きだった男はいてもいなくても一緒だった。どうでもよくなっていたのだ。別れ話をした時の好きだった男は冷静で、物分かりが良すぎて怖かった。もう会うこともないだろう、そう思った。後日、好きだった男からもう一回だけ会ってほしいと言われたが、1mmもときめかなかった。

 

私に好きな人ができたからだ。

 

好きな人は38歳で、キャバクラで出会った。ただのお客さんだったけれど、一目惚れだった。会ってその日にホテルに行った。

(ワンナイト的なアレなんだろうな。)

そうおもった。

ホテルに着いてから、好きな人と人生の話をした。今まで付き合った人、育ってきた環境、左腕の傷のこと。気づけば朝になっていた。好きな人のことを好きになるまで、時間はそうかからなかった。

好きな人はお酒が大好きで、ちゃらんぽらんしてて、どこかふわふわしてるけど、芯があって熱い人間だと知った。適当に見えて適当じゃないところが好きだ。ぶっきらぼうで、不器用で、思ってることと反対のことをいう。だけど思いやりのある人だ。人をよく見ている人だ。他人のことを思って本気で怒れる人。好かれる側の人間だ。付き合う人はリスペクトできないと無理な私にとって、好きな人はサイコーだった。顔ももちろん好きだったけれど、内面を知れば知るほど好きになっていった。

出会いの場がキャバクラだったから、私は目先のことしか考えていなかった。好きな人が、私との将来を真剣に考えていると知って嬉しかった反面、驚いた。

 

好きな人のことが好きすぎて、二人きりになった時に泣いてしまった。酔っていたから自分が何を言って泣いたのか覚えていないけど、好きすぎて困ると伝えたのは覚えている。

好きな人は、上司と毎晩飲み歩く人だ。飲む場所は大体キャバクラ。顔がいいから女の子にモテる。私より可愛い子が沢山いる中で私は不安になった。好きな人に「飲み歩くのはしょうがないって分かるだろ。お金出すのは全部上司だから。でも俺の帰って来る場所は文ちゃんだけだよ。」そう言われて泣いてしまった。

好きな人が私との将来を本気で考えてるって伝わって来るし、酔って電話かけて来るときはいつもの虚勢なんかなくて、滅茶苦茶素直だ。どうやら好きな人は、私のことを「すげー好き」らしい。私は年上の社会人と付き合うのが初めてだったし、仕事の話をできるのも楽しかった。「仕事を真面目にしないやつは嫌いだ。お前ががんばろうって言って頑張ってるのを見ると俺もがんばろうって思える」って言われた時にああ好きだなと思った。背中を押してくれる人だなと思った。仕事行きたくないなって言った時に、好きな人は頑張ってこいって言ってくれる。行きたくないと言って、じゃあ休めば?なんて言われたくないのだ。そして私が本当にダメな時とそうでない時の見極めがしっかりできる人。周りの人間に恵まれてると満面の笑みで言えてしまうような人。陽だまりの中で生きてきたような人。眩しい。私とは違う。だから惹かれてしまうのかもしれない。お前が見たこともないような景色を見せてやりたいと言われたのが嬉しかった。一緒に見てみたい。

 

いままで、どうせいつか全部終わるのだと思いながら恋愛してきた。4年半付き合った元恋人とも、好きだった男とも。ずっとなんてないと斜に構えていた。いつか全部終わってもいい。それでもいい。それでもいいから一緒にいたい。好きなんだな。

 

好きな人は、私にキャバクラをやめろと言わない。「あんまり言いたくないけど、」本当にいいたくなさそうな顔をして「惚れた女が客に口説かれたり触られたりするのは嫌だよ」と好きな人は言った。私はそれを聞いて嬉しくなった。

キャバクラは楽しい。出勤前に笑みがこぼれてしまうくらい楽しい。女の子も私を指名してくれるお客さんもみんないい人だ。お酒も美味しい。知らなかった世界を知れた。良いも悪いも全部自分の目で見たいと決めて飛び込んだ世界だけど、私のした選択は間違ってなかったと思う。視野も広がった。いろんな職種の人と話ができるのが楽しい。ちやほやされることもあれば罵られることもあるけど、それも全部経験になると思えばなんともない。キャバクラの寿命はそう長くない。駆け抜けたい。

 

いま一番幸せなことといえば、好きな人と一緒にお酒を飲んでくだらないことで笑い合えることだ。好きな人に早く会いたい。頑張りすぎる好きな人を抱きしめたい。お疲れ様って満面の笑みで迎えるんだ。