'97

泣かせないって言ったじゃん

 

「あんなに好きだったのにこんな風になってしまうなら、嫌いになる前に離れたい」

 

いつだかの日曜日、それは起こった。

突発的なものだったのか、或いはもっと前からそう思っていたのか。

 

初めて大切な人を泣かせた。傷つけるって分かってて傷つけた。自分が傷つくことよりも、誰かを傷つけることの方がよっぽど怖かった。

 

「もう無理なんだよね。あなたと居ると嗚咽が止まらないの。その物の言い方も態度ももう全部限界なの」

 

「私のこと下に見てるよね」「普通好きだったらどれだけ怒ってても人を馬鹿にするような言葉でないよね。」「母親としての自覚がないって普通そんなこと言う?」「障がい者なんじゃないのなんて言わないよね。」「それで好きって言われても分かんないよ、あなたの言う好きが私は分からない。」

 

「文ちゃんは自分だけが辛いとか自分だけが頑張ってるとか思ってるんでしょ?」

 

そりゃ思うでしょ。だって私とちびすけだけならこんなに頑張らなくていいもの。育児が楽とは思ってないよ。思わないけど、だけどそんな物言いしなくてもいいじゃんか。今月給料少なすぎるって言われてああ死にたいなと思った。何のために私は働いてるの?自分の洋服なんか買ってないよ。どこにも行ってないよ。誰とも会ってないよ。毎日家と職場の往復だよ。あなたの税金やら保険やら元嫁への養育費に消えてるんだよ。30万以上も消えてるんだよ。そんなん辛いでしょ。死にたいと思うでしょ。弱音くらい吐くでしょ。じゃあ仕事辞めれば、俺が働けばいいんでしょなんて言い方されたくなかった。介護だって好きで辞めたわけじゃない。辞めたいとは言ってたけど自分のタイミングで辞めたかった。また私から奪うんだね。「文ちゃん今日も頑張ったね」って、ただそれだけでよかったのに。二人で昼働いてちびすけ保育園に預けて、それが普通なんじゃないの?こんなのおかしいし普通じゃないよ。何回も言ったよね。預けるのはコロナが心配だからって言うけど、やり方なんていくらでもあったよね。チャンスも時間も沢山あったよね。

私はずっと普通になりたかったよ。

 

 

自分の気持ちを口に出したら止まらなかった。ダメだと思えば思うほど腹の底からどんどん溢れてきた。誰か私を止めてくれ。誰か私を助けてくれ。もう全部辛いんだ。死にたいとすら思うんだ。

 

出会って2年、子どもが産まれて1年と少し。

どうして今まで籍を入れてくれなかったの?どうして認知届すら出してくれないの?あなたは家族だというけど。何が家族なの?私が死んだらこの子はあなたの戸籍には入れないんだよ。法の元では私しかこの子を守れないんだよ。それなのに家族ってなんだよ。

私はちゃんとそれになりたかったのに。

 

 

それから旦那は昔話をした。

 

初めて出会ったのが2019年の7月20日

俺はずっと地獄にいたんだ。文ちゃんが俺を救ってくれたんだよ。生まれて初めて死にたいと思った。でも文ちゃんと居る時だけは全部忘れられたんだ。あの眩しい笑顔に何度も救われた。

転勤で北海道に行くことが決まって、文ちゃんは大好きな介護を辞めなくちゃいけなくなって、それでも一緒にいられるならいいよって言って着いてきてくれたこと。

北海道で一緒に住み始めるまでの2ヶ月間さみしくてさみしくて仕方なかった。文ちゃんは仕事の合間に毎日電話してくれて、俺明日も頑張ろうって思えたんだよ。

そのあと色々あって住んでた家を追い出された時も、文ちゃんは俺の心配ばっかりしてたよね。大丈夫?ってさ。私のことはいいから、一緒にいられるならそれでいいからって言ってくれたよね。全部全部嬉しかった。

文ちゃんのことが好きなのに、プロポーズした時に泣かせないし苦労もさせないし毎日笑わせるって言ったのに、こんな形になって本当にごめん。俺が一番望むのは文ちゃんとちびすけの幸せだから、全部、文ちゃんが決めて。

 

泣きながら、時々言葉に詰まりながら旦那が話すのをただただ聞くことしかできなかった。流れる涙も拭く余裕なんてなかった。

 

「俺は文ちゃんが今でもあの時と変わらず好きだよ。何もかも中途半端でずっと苦しめてごめん。そりゃ捨てられるわな。」

 

見栄っ張りでかっこつけな旦那が初めて見せた弱々しくて情けない姿。それから沢山話した。出会った時の些細な出来事。夜中に一緒に食べたカップラーメン。私が初めてあなたに作った手料理は肉汁うどんだったこと。妊娠が分かった時のこと。那須に二人でデートに行ったこと。子どもが生まれてからの日々のこと。私ずっと幸せだったよ。あなたと初めて出会った時、私死にたかったんだ。泣きながら死にたいんだって言う私の話をあなたは最後まで聞いてくれたよね。あの時俺、文ちゃんが死にたいって思わないようにしてやりてえなって思ったんだ。そう言って優しく抱きしめてくれたよね。

なんだかあの日がはるか遠い昔に感じるね。

 

このまま私が我慢すればなにも変わらず、これまで通りずっと幸せでいられるんだろうな。こういう時に本当の家族であれば腹を割ってここが嫌だったと話して、ごめんねって言いあって、また明日からよろしくねって言って何事もなかったかのように過ごすんだろうな。でも私無理だった。忘れないと思う。このままここにいたら心が死ぬと思った。心は死んだまま、何もなかったかのように過ごして、多分また繰り返す。だったら離れたい。私はあなたがいない方がずっと楽に、笑って、健やかに生きていける。心の余裕もできる。

 

嫌いになったとかじゃないの。ただ純粋にもう疲れたの。

私は誰かのために頑張れる人間だけど、誰かのための誰かに当てはまるのは多分あなたじゃない。守らなきゃいけないものを間違えちゃいけない。誰のために頑張っているか忘れるな。誰が私を奮い立たせてくれているか忘れるな。全部ちびすけだ。

 

この人となら不幸になってもいいと思った。働けなくなっても、病気になっても、私が働いて、私が支えればいいと思った。私が辛くてもだいすきな二人が笑っていてくれたらそれでいいと思った。でも、この人に不幸にされるのは違う。私を泣かせないと言ったこの人に泣かされるのは違う。苦労したっていいよ。一緒にいられるなら。全部いいよって言ってきた。全部許した。ずっと耐えてきた。でももう、無理だなあとぼんやり思ってしまった。

 

この感覚、懐かしいなと思った。4年半付き合った人の時もこの感覚だった。嫌いじゃない。でも好きか分からない。空気みたいな人で、いなきゃダメで。でも未来が見えなくて、体はあなたを拒絶する。もう終わりだなと思った。

 

不思議と、離れることが決まってから嗚咽する回数が減った。体は本当に正直だと思う。

 

耐えて耐えて耐えて、生き抜いて、その先に何があるというのだろう。結局毎回こうなってしまう。多分一生こんな感じなのだろうな。一生幸せになれないのだ。幸せだと思ってもいつかは崩れてしまうんだろうな。期待しない方が楽だな。望まない方が楽だ。こんな風になってしまうなら。

 

誰か助けてくれと何度も願う。ひっそり願う。誰にも聞かれないように小さく呟く。多分誰にも届いてほしくもない。もう全部疲れた。いなくなりたい。せっかく遠くに来たのに、また違うところへ行きたいと思う。誰も私を知らないところへ行きたい。一人になりたい。書いてて思うが、確かに母親としての自覚、ないかもな。

 

笑っちゃう。