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眠るちびすけの顔を見て、ああ好きだなと思う。

自分の父も母もこんな気持ちだったのかとも。

 

本当はたくさん書きたいことがある。私は頭で考えると自分の考えがこんがらがって、誰かに何かを伝えるとき、何が言いたかったのかわからなくなってしまう。だからこうして自分の思っていることを文字にする。そうすると明確に自分のことがわかるような気がする。気がするだけかも知れないけど。

 

好きになった人が大切な存在であればあるほど、関係性が強ければ強いほど、私は言いたいことが言えなくなる。その根っこにあるのは嫌われたくないという感情だと思う。これを言ってしまったらという怯えである。関係がぎくしゃくするのは嫌だ、私が我慢すれば丸く収まる。そんな生き方をして来たら自分がなにを思っているのかが分からなくなった。自分で考えるのが面倒になった。どっちでもいいよ、なんでもいいよが口癖になった。誰かに自分の意見を言うより、全て飲み込むほうが楽だ。何食べたい?に対して、とっさに食べたいものが出てこなかったり、一人で出掛けてきていいよに対して特にやりたいことが浮かばなかったり。そういうのも全部、誰かに合わせて生きてきてしまった代償なのかな。今時、誰かに対して自分の意見をはっきり言える人の方が少ないのかもしれない。私みたいな人間が多いのかもしれない。だけど、好きな男はわたしに曖昧な態度を取らない。何食べたい?って聞いたら必ず食べたいものがでてくるし、どこか出掛けてきていいよっていったら今はちびすけと一緒にいたいって言ったり。羨ましいなと思う。だけど多分、私が好きな男みたいに自己主張の女だと、きっと合わないだろうなと思うから、別に不満があるわけではない。ただ、もう少し自我を持ちたいなっていう話。

 

母の事を思う時間が増えた。自分が母になり、母もこんな気持ちだったのかなとか、母は大変だったろうなとか。母が幸せだったとは思えない。母が私を愛しているのは分かってる。だけどどうしても、あんたなんか産まなきゃよかったという言葉がフラッシュバックする。幸せだったとは言い難い18年だった。友達の家族を羨んだし、どうして自分は普通になれないんだと何度も嘆いて泣いた。ろくにご飯を食べられなくて、一日白飯一杯だけの日や、母がうつ病の時は毎日コンビニ弁当だった。私がご飯を作ればよかったが、そもそも家に食材もなければそれを調達するだけの金もない。なにより母は私が台所に立つのを嫌がった。母の嫌がることはできなかった。当時高校生だった私の昼飯代は一日500円だった。当然弁当なんてものはないので、学食を食べていた。唐揚げの入った100円のわかめおにぎり一つだけだった。同級生たちはバイトや遊びでサイコーの高校生活を送っているように見えた。バイトも母から禁止されていたし、遊ぶ金もなかったので自分がすごく惨めに思えた。お金さえあればと何度思ったかわからない。父と母が離婚したのも金がなかったからだ。高校を卒業し、就職して、自分の金で生きていけるのが嬉しかったけど、働いても働いてもお金は溜まらなくて、やっぱり金に苦しんだ。今でもお金のことを考えると苦しくなる。ああ早く働きたいな。養ってもらう立場にいるのがとても後ろめたい。

お金はなくても愛のある家族は幸せだと思う。うちにはどちらもないと思ってたからどこにいても誰といても孤独だった。高校は同じような子が沢山いて、その辛さを語り合った。心が少し楽になるような気がしたけど、愛されて金もあって育った子どもにはその辛さは分かってもらえなかった。分かってもらいたかったわけじゃないと思うけど、住む世界が違うんだってはっきり分かった瞬間だった。その時の私は今よりもひねくれていたから、せっかく歩み寄ってくれた子に対して、同じ環境にいる人じゃないと分かんない、幸せな家で育ったくせに分かるとか言わないでとか思ってたな。同じ環境でなくても、幸せに育っても、人の心に寄り添おうとしてくれて、大変だったねって泣いてくれるような人が居るって知ったのはもっと後になってからだった。「同じ目に遭ってなきゃ分かろうとしちゃいけないの」って言われてハッとしたな。

 

母は弱い人だと思う。そしてとてもやさしい人だと思う。

母は頼れる人が誰一人いない中で、子どもを5人連れて知らない土地で養っていかなければならなかった。洋服はよれよれ、髪の毛はプリンもいいところ、白髪まみれで化粧っ気もなかった。ご飯は食べなくて、煙草と珈琲だけ。心配性で甘えるのが本当に下手くそで、素直じゃなくて、いつもイライラしてた。18歳で実家を出て、一人暮らしをするようになってから母は ”いい母” になった。優しくて、まるで私の知らない母のようだった。

今振り返れば、きっと母と私の距離が近すぎたんだと思う。母は私にしか自分の気持ちを話せなかったし、私はそれを全部受け止めてた。だから苦しかった。母が辛いと言えば私も辛くなった。母が死にたいと言えば私も死にたくなった。母は、私が母の言葉に影響されやすいのも分かっていたけど、あの頃の母は自我を保つのに必死だったんじゃないかと思う。実家を出てから、母といろんな話をするようになった。自分の事を話せるようになった。

母が昔、暴力的だった頃の話をしたことがある。「お母さんあの時どうかしてたの、早く忘れたい」そう言っていた。私は母にされたことを一生忘れないと思う。だけど母を憎んでいるわけではないし、恨んでもいない。当時の母は、お前たちを殺してお母さんも死んでやるって勢いだったし、私が母と同じ状況だったら私だってそうしていたかもしれない。それでも母が私を殺さなかったのは、どれだけ憎くても産まなきゃよかったと思っても、それでも私を愛していたからなんだろうな。私はそれを幼いながら分かっていたんだと思う。

私は今でも父のことも母のことも大好きだ。何をされても嫌いになれなかった。どれだけ辛くても他の家ならよかったのにと思わなかった。羨みこそしたけど、違う家族になりたいと願ったことはなかった。子どもとはそういうものなのだと思う。何をされても、何と言われようと、母の事は嫌いになれないのだと思う。もちろん、私よりひどい目に遭った子どもや、絶縁状態にある子どももいると思う。父や母が嫌いだという子どももいると思う。でも私は父や母のことを嫌いになれなかった。どうしても好きだった。親は責任があると、自分が親になってから強く思う。その責任って何よりも重いものだと思う。私のようになってほしくない、ちびすけには愛されていてほしい、愛されて育ったなと胸を張って生きてほしい、でも人の苦しみや辛さに寄り添える人間になってほしい。そのためには少しばかり傷ついたり、傷つけたりして成長しなければならない。葛藤がすごいな。

 

母に産まなきゃよかったと言われたとき悲しかった。殺してやるって言われたとき怖かった。あんたさえいなければと言われたとき苦しかった。私が居なければおかあさんはもっと別の人生を歩むことができたのかなって思って悲しかった。母の自由を奪ってしまったと思った。私さえいなければ、と何度も思った。何年も思い続けた。でも死ぬのは怖かった。手首に剃刀を当てたとき、血の気が引いていくようだった。痛いのは怖かった。結局、手首ではなくて腕の内側に傷をつけた。そうしたら少し楽になる気がした。母に言えなかった思いが浄化していくようだった。

それが母にバレた時、母は声を震わせて何をしたの、と言った。そんな分かり切ってること聞かないでよと思いながら、私は自分でやったと言った。母は泣き崩れた。文字通り泣き崩れたのだ。そんな母を見たのは初めてだった。その瞬間、ああやってしまったと思った。母を泣かせてしまった。私はその場にいられなくなって、泣きながら家を飛び出した。母は家を飛び出す私に何か言っていたが、全く思い出せない。あれは私のトラウマだ。その後、どうやって家に帰ったのかも、母とどんな会話をしたのかも、思い出せない。人は過度なストレスを感じるとその出来事を思い出さないようにするらしい。だから今は全く思い出せない。

私は母に一方的に感情をぶちまけられるだけだった。母に一切の反論もできなかった。私がなにかを言うことで、母を苦しめたくなかった。だから聞く側に徹した。この腕の傷はお母さんのせいだよって何度も言ってやろうと思った。少しは傷つけばいいと思った。でも言えなかった。やっぱり駄目だった。母を傷つけたくなかった。そうすると腕の傷は日に日に増えていった。それに気づいた学校の先生が私を抱きしめて泣いた。「気付いてあげられなくてごめんね、ずっと苦しかったんだね」そう言って泣いた。私は私の為に泣いてくれる人が居ることを知った。私も一緒になって泣いた。

全てを知っている友達が一人だけいる。彼女はもうしないでねとまるで自分が傷ついたように眉毛を八の字にして言った。悲しそうな顔だった。何年かして、その腕の傷は文ちゃんの生きた勲章だねと言って私の傷跡をさすってくれた。そんな大げさな、と思いながらやっぱり泣いた。私が自分を傷つけると、私を大切に思っている人が苦しむことを私は知った。それからもう自分を傷つけることはしなくなった。どんなに苦しくなっても、死にたいと思っても、自分の体に傷はつけなかった。私のために泣いてくれる人を傷つけたくない気持ちのほうが強かった。

 

そんな風に傷ついたり傷つけられたりして、今の私が形成されている。今まで生きてきて、悪意に触れることは少なかったように思える。いつでも優しく包まれてきたような気がする。恵まれた環境で育ったら、人の気持ちなんて考えなかったかもしれない。育ち方は関係ないのかもしれないけど。もし私がごく普通の家庭で育っていたら、人の気持ちがわからなかったのかな。どうなんだろう。その人によるんだろうけど。

 

私はいつまで経っても、自分のことが好きになれない。顔もそうだけど、性格も。私は自分を大事にできない。さっきの何食べたい?もそうだけど、左腕の傷とか。お腹は空くけど食べたいものが出てこない。食べたいものがない状態を食欲がないというらしい。それならこの世に食欲のない人間はどのくらいいるんだろう。私は自分のために何かをすることができない。ご飯を食べることや、自分磨きのための努力とか。

 

なんか暗いね。

 

今年のお盆帰省、どうする?ってニュースでやってた。帰る人も帰らない人もいるみたい。私の母は、まだ産まれたちびすけに会っていない。好きな男の両親もだ。会いたいけど会えない。ちびすけになにかあったら、もし私が保菌者で家族にうつしてしまったら。そんなことを考えたらやっぱり会えない。会いたいな。母はどんな顔をしてちびすけを抱っこしてくれるのだろうか。まだ画面越しでしか見てない孫にどんな風に笑いかけるのだろうか。そんなことを考えると余計に会いたくなる。

私の父と母は離婚している。父と最後に会ったのは北海道に来る前だ。約5年ぶりに会った。父は痩せて、昔よりずっと小さく見えた。「ちゃんと食べてる?」「食べてるよ」そんな会話をした。子どもを産むことは電話で伝えた。それが去年の10月頃。父との電話はすごく緊張した。父と話すのにはすこぶる勇気がいる。父が怖いのではない。ただ単に接し方が分からないのだ。一緒に居たのはもう12年も前だから。父と話して私は泣いた。

 

fim8ag.hatenablog.com

 

父に、「産まれたら子どもを連れて会いに行ってもいい?」と聞いた。父は「別に構わないよ」と言った。それだけで涙が出た。私たち家族はバラバラだ。会うのに理由が必要な関係だ。ちびすけを父に会わせたいというのは、父に会うための口実でしかないのかもしれない。それでも私は父に会いたい。

父に暴力を振るわれたことや、「お前のせいで他の兄弟が迷惑する」と言われ一人で夜の寒空の下、家を追い出されたこともある。鉛筆削り器の音がうるさいと言われ、怒鳴られたこともある。それでも父は優しかった。母もよく私を家から追い出した。家に入れてくれるのはいつも父だった。寒かっただろと言って風呂に入れてくれた。先端恐怖症で包丁が怖いからと言って父の作るご飯はいつも炒飯だった。ちびすけを寝かしつけるとき、背中や胸をトントンと叩いて寝かしつける。その瞬間いつも父を思い出す。父も私をこうして寝かしつけていたことを覚えている。小学校を遅刻すれば車で学校まで送ってくれた。自転車の乗り方だって教えてくれた。ひどいことだって沢山されたけど、私は小さな小さなやさしさをずっと覚えてる。

 

愛されなかったとずっと思っていた。だけどちびすけを育てて分かった。ちゃんと愛されていたと。愛してなければ育てられるはずもないし、私がここまで生きていられてなかったと。

 

私は父も母も大好きだ。嫌いになれっこない。

 

私は自分は不幸であると思いながら生きてきた。幸せになるのが怖かった。不幸だと思っていたかった。そうすることで自分を守っていた。幸せが怖いのは、いつか壊れてしまうことを知っていたからだ。いつか不幸になってしまうくらいなら、ずっと不幸でいたかった。傷つきたくなかった。幸せになったらなったで、つまらないなと感じた。自分には不幸が似合っていると思っていた。でも友達や好きな男は、私の笑顔を見て、「笑顔が一番似合う」と言ってくれた。私が笑えばちびすけも笑ってくれるようになった。幸せが怖かったけど、幸せになれてよかったと心の底から思う。いつか壊れてしまうなんて思う瞬間がないくらい幸せな毎日を送っている。愛されていないと悲観した私を浄化させてあげたい。暗い未来しか想像できなかった、20歳で死ぬと言っていた高校生の私は、22歳になった。これから瞬きする暇もないくらいのスピードでちびすけは成長していくだろう。そのうち寝返りをして、はいはいするようになるんだろう。来年の今頃には歩いて、外で一緒に遊んでいるのだろう。そう考えると、あの時死ななくてよかったと言える。死ねなかった私は不幸なんかじゃなかった。暗い未来なんかじゃなかった。

これから先、また辛いことがあるかもしれない。泣いたり、苦しんだりするかもしれない。でもそれでもいいと思える。ちびすけの成長を見届けるまで死ねなくなってしまったけど、それでいい。死にたかった頃の私はもういない。