'97

受け取るばかりの愛だった。

 

いずれ全て失うのだ。或いは。

 

もう終わりにしようと告げた。

数秒間の沈黙の後、なにを、と尋ねる声はひどく悲しそうだった。

 

恋人のいる人生が正しいのか、好きな男のいる人生が正しいのか、最早私には分からなかった。もし未来がわかっていたらあんなに泣くこともなかっただろう。私が恋人を想う気持ちは好意ではなく執着心なのではないかと思ってしまった。恋人の隣を歩きたいのではなく、恋人を支配しておきたかったのではないか。私の中に留めておきたかったのではないか。私が隣を歩かなくても、永遠に私を好きでいてほしかった。恋でも愛でも無く、ただの執着心だったのだろうか。

 

恋人の彼女に嫉妬心すら抱かなかったのは、恋人がずっと私を好きでいてくれるからだと思った。それは恋人からの愛に対して自信があったからだ。でも普通なら、好きな人が自分以外の女と日々を過ごしていたら嫉妬するものではないのだろうか。私がおかしいのだろうか。

 

付き合ってもいないのに別れ話というのはおかしな話だろうが、その最中、恋人は財布と携帯だけ持って立ち上がった。「どこに行くの」と掠れた声で聞いた。「少し出てくる。」聞き取れるか聞き取れないかくらいの声の大きさで恋人は言った。

「帰ってくるよね」確認せずにはいられなかった。恋人がもうこの家に帰ってこない気がした。

「帰ってくるよ」

 

私は恋人の帰りをひたすら待った。

 

恋人に沢山沢山酷いことを言われた。恋人になにを言われても仕方がないと思った。恋人を選ぶと思った。私もそう思ってた。だけどこの気持ちが恋でも愛でもないと分かってしまった以上、また恋人同士にという訳にはいかない。嫌いになったわけじゃない。今だって気持ちはある。でもそれが恋なのか愛なのか、はたまた情なのか。分からないんだ。また前の生活に戻るのが怖い。好きだよって言われて私も好きだよって言えないのが辛かった。好きなのか分からなかった。恋人はなにも悪くない。悪いのは私だ。

 

恋人と生きていかない道を選択した。

極端な話、恋人が死んでいても私は知ることができない。私はそれが怖かった。恋人がいて当たり前だった。空気だった。今更好きとか嫌いとかそんな問題じゃなかった。愛だと思ってた感情は愛じゃなかったのかもしれないと思ったら怖かった。恋人に会えるのが楽しみではなかった。着飾ることも、部屋を掃除することもなかった。自分をさらけ出せる人だった。楽だった。これは愛じゃなかったのかもしれない。

 

そう思う反面、会いたいと思う自分もいて本当に自分がどうしたいのか分からない。吐きそうだ。

 

私が答えを出す前、恋人はずっと怯えてた。「もしかしたら好きなのは俺だけじゃないかって思うんだ」「自信がないんだ」耳にタコができるくらい聞いたセリフだ。それだけ聞いていたのに選ばなかった。わかんない。わかんない。

 

永遠にあるものだと思ってた。延々続くものだと思ってた。エンドロールなんて流れないはずだった。終わりにしたのは私だ。大袈裟なのだ。私も恋人も。この選択が人生なのだ。

 

恋人はいつか私の前からいなくなる。一切の痕跡すら残さずに。そうなった時、私には泣く資格がない。嘆く権利もない。私が選んだ道だ。恋人をいつまでも縛り付けてはいられない。

恋人の顔を見た瞬間涙が溢れて止まらなかった。どうしたのと私の涙を拭う恋人の優しさが痛かった。ごめんと何度も言った。謝られても困ると言われて辛かった。でも私より恋人の方が辛かった。

 

身体中の水分が恋人に奪い取られるようだった。人生であんなに泣いたのは初めてだった。自分でもなんの涙なのか分からなかった。恋人を失いたくないゆえの涙なのか、恋人を傷つけることが怖かったのか、自分が傷つくのが怖かったのか。文ちゃんは自分のことを守ってばっかりだねと恋人に言われた。その通りだった。本当は傷つくのが怖かった。自分の身を守ることに必死だった。好きな男と一緒にいたいくせに、恋人も失いたくないなんて我儘すぎる。自分がこんなに我儘だとは思わなかった。

 

今でも分からない。恋人を捨てる道が正しいのか分からない。好きな男を選んだ私は幸せになれるはずがない。いつか全部なくなる。いつか私も同じ目に遭う。だって大切な人をあんなに泣かせて傷つけて、それで幸せになれるわけがない。未来がこわい。いつか気持ちが変わることが怖い。いつか私も同じ目に遭う。幸せになれるはずがない。

 

これでもう終わりなの、もう会えないのは嫌だという恋人を突き離せなかった。会いたくない、嫌いだと言えたらどんなに良かっただろう。「文ちゃんは俺のこと好きだよ、だってどうでも良かったらこんなに泣かないでしょう」と言われてぐちゃぐちゃになった。これでもう会えない、嫌いだと言われたら私は死んでしまうだろう。そう思うのに恋人を選べなかった。残酷だ。

 

この気持ちがなんなのか分からない。好きなのかもしれない。恋人が私の目の前から跡形もなく消えるのが怖い。こわい。こわい。

 

 

 

いなくならないでという資格が私には無い。