'97

「ありがとう」

ナースコールで呼ばれて患者さんのところへ行くと、目薬を差してほしいと言われた。 いつもの日課なのだが、昨晩は忘れてしまったらしい。「もう忙しい時間は終わったと思ったから呼んだの」気を遣わせているのだろう。それも優しさだと思うと同時に申し訳ないと言う気持ちになる。


「わたしね、最近おかしいの。夕食の後、入れ歯外したと思ったんだけど、上下外したか忘れちゃったの。綺麗にゆすいだところまでは覚えてるんだけど、その先が思い出せなくて。目薬も、昨日の夜にしようって思ってたのに、しないで寝ちゃったの。忘れっぽくって、歳のせいかしら、いやね」

 

ほんの30分前のことであるが思い出せない。それが認知症である。
笑って言っていたけれど、きっととてつもない不安だろう。認知症初期は、自分が〈少しおかしい〉ことに自覚があるからだ。


「わたしももっとね、頑張らなきゃいけないの。生きているうちはね」


微笑む姿に思わず涙がこぼれた。

永遠に生きられるわけじゃない。限られた命だ。97歳にして軽介助で車椅子に移れることも、自分でお粥ご飯を食べられることも、トイレに行けることも、話せることも、全て奇跡だと思う。人は誰しも不平等に限られた命なのだ。

 

いつかは、いつかは息をやめる日が来てしまう。そう思ったら涙が止まらなかった。今は私のことも覚えていてくれて、名前も呼んでくれる。昨日あったことも覚えていられる。けれどそのうち、そう遠くない日に、何もかもが分からなくなる日が来てしまうかもしれない。そうなった時に、どう支えたらいいのかが分からなくなる。少しずつ進行する病に対する不安にどう寄り添ったらいいのか分からなくなる。

大丈夫だよと言ってあげたい。けれど何が大丈夫なのか。ただ自分に言い聞かせているだけではないか。

 

「ご飯だって前より食べられるようになったし、私が手を貸さなくてもご自分で車椅子からベッドに戻れるようになったじゃないですか。十分、頑張っていらっしゃいますよ。」

 

そう言うことしか私にはできなかった。

 

「でもね、まだまだ頑張らなきゃいけないなって思うのよ」

 

認知症患者の気持ちを否定をしてはいけないと習っていたけれど、私はもう十分じゃないかと思ってしまった。だってこんなに毎日一所懸命生きているのを私は知っているから。

 

「ちゃんと見ていますよ。頑張っているのを私は、ちゃんと見ています」

 

私の素直な気持ちだ。

 

「わたし、ここへ来てよかった。だってここにはフウカちゃんもいるし、文さんもいるもの。こんなに親切にしてもらって、わたし幸せ」

 

そんな言葉をかけてもらえるなんて思ってもいなかった。自分がこんなに誰かのためになっているなんて自惚れたことなんてなかった。だからこそ嬉しかった。ボロボロに泣いてしまって仕事が手に付かなかった。幸せだなんて言ってもらえると思っていなかった。

 

わたしは今日のことを一生忘れないと思う。この患者さんがもし息をすることをやめたとしても、思い出して涙する日があると思う。

「ありがとう」と言われるたびに、ありがとうはこちらの方だとよく思う。だって仕事だ。わたしはこれで給料を貰っている。だけど、そんな風に言ってもらえて「文さんがいてくれてよかった」と言われて、泣かない人などいるのだろうか。嬉しかった。

 

あの時仕事をやめないで良かったと思えた。頑張ろうと思えた。97歳が必死に毎日を生きているのに、たかが20歳の私が弱音を吐いていてどうする。いつも笑顔でいられなくてどうする。情けないじゃないか。踏ん張ろう。辛いことがあっても、踏ん張って生きていこう。この気持ちを一生忘れないでいたい。私の方が救われているのだ。